広告の功罪
先週はAmazonプライムデーでしたね。
私は日頃からいろんな人のブログやyoutubeなどを見るのが好きですが、このプライムデーの間だけ一切そういった類のものから距離を離して過ごしていました。
決してAirPods Proをポチってしまわないか心配したわけではありません。
「Amazonプライムデー!買うべき製品○つ!」なんて具合に同じような記事や動画の乱立。しまいには「うっせぇわ!」状態になってしまったんですよね。
同じタイトル、同じアイキャッチ、同じような内容…。
Googleさんのコンテンツ(ブログ、youtube)はこういったことになりやすいんですよ。
私はこれ、コンテンツを作る側の責任というより、広告がこうしてしまったと思っています。
なぜ広告は必要なのか
広告は画期的な手段
「なぜ広告は必要なのか」
まずはここから語っていきましょう。
コンテンツ制作者。例えば、アプリ開発者やブログを書いて生活している人。Youtuberなど動画を作って生活している人。
彼らはコンテンツを作って生活しているわけですから、当然どこかからお金を得る必要があります。
でもね。お金を得るって相当大変なわけです。
役に立つかわからないアプリ、どこの誰が作ったのかわからない記事や動画にお金を払う人ってまずいません。
「見る人はお金を払う必要がなく、コンテンツ制作者はお金を得る」
消費者と生産者がお互いにWin-Winになる魔法のような方法
こんな方法があるのかって?
実はあるのです。それが「広告」です。
三方よしの広告
テレビを例に話をします。
私たちは、テレビをつければ特にお金を払うことなく、番組(コンテンツ)を見ることができます。
先ほど言ったように、テレビ局はお金をどこかから得る必要があります。。
どこから資金を得ているのでしょうか。
スポンサーです。
テレビ局は、簡単にいうと、スポンサーからお金を得ることで経営が成り立ちます。
この広告システムがあるおかげで、放送局はお金を得られて、私たち視聴者は無料で放送を見ることができ。そして、スポンサーは広告という形で見返りを得るわけです。
これで、テレビ局、視聴者、スポンサーのみんなが得する魔法のシステムが完成したわけです。
では、この広告システムが導入されたことによって、その後どうなったのでしょうか。
広告の功罪①
目立てば良いという発想を生む
広告というシステムは、「多くの人に見られることでお金がもらえるシステム」なのです。
テレビを例に言えば、高い視聴率だと多くのスポンサーからお金を得ることができます。
システムとして、そういう構造になっているわけです。
残念ながら、この広告システムの弱点は、「システム自体にコンテンツを高める要素がない」ということです。
見られれば良いわけです。
このシステムから生まれたコンテンツからは「コンテンツの質」ではなく、「多くの人に見られる」がゴールになってしまうんですよね。
過去の事例
- 炎上商法
最も楽に目立つことができるのは、炎上です。
過激な発言や行動に、人は群がる性質があります。
炎上は、目立つための手段としては最もコスパが良い手段です。
- 真実かどうかわからない情報
目立てば良い、という発想で生まれる情報には、真実かどうかはさほど重要ではありません。
情報元の取材や科学的根拠を見つけるにはそれなりの時間やお金がかかります。
「多くの人に見られるため」という発想においては、情報が真実かどうかよりも「多くの人の目にとまること」が重要になっていきます。
- 誰かを傷つけても構わない
ある特定の個人や集団を批判することも、私たちの目に留まりやすい情報です。
炎上商法や根拠のない情報の結果、誰かを傷つけても、情報の発信者はさほど気に病まないでしょう。
傷つける意図があるかどうか、ではなく、傷つける可能性を考慮して発信しているか否かが重要なのです。
広告の功罪②
金太郎飴の乱立
金太郎飴とは…
どこを切っても同じ絵柄(金太郎)が出てくる飴。 同じような内容のコンテンツを指すこともある。
先ほど書いたように、人の目にとまる情報というのは、特定の傾向があります。
そのため、広告収入によって生まれたコンテンツは、どこか似たような内容になりがちです。
Appleの新製品がでれば、Youtuberはこぞって新製品を絶賛し。
アマゾンプライムデーでは「年に一度の大安売り」と煽って自身のブログの広告リンクから物を買ってもらおうと躍起になります。
google検索はコンテンツの質を上げたのか
何か調べたい時に使う検索ツール第一位はGoogle検索だそうです。(ちなみに第二位はYoutube)
google検索でヒットするものは、ブログ記事が多いって知っていますか?
広告収入のリンクを貼ったブログ記事は、みんな検索されようと必死に頑張っています。
そして、その結果。検索されやすい形のフォーマットが完成したのです。
- タイトルは32文字以内
- タイトルには数字を入れて
- それぞれの見出しには検索されやすい言葉を
この形で作られた記事は確かに読み手の興味をそそり、読みやすく感じます。
これとか。
これとかね。
この結果、読み手の読みたくなるようなフォーマットにならい、そしてキャッチーな話題ばかり取り上げた記事がどんどん増えました。
そして、無味無臭な記事の誕生です。
広告のない世界
広告なしという希望に満ちた幻想
このようにして、広告というシステムは、読み手にとっても書き手にとっても良いシステムに見えましたが、長い目で見ればコンテンツの質を下げてしまうシステムだと私は思います。
では、広告をなくしたらどうなるでしょうか。
コンテンツの制作者はどこかから収入を得る必要があります。
当然、収入先はコンテンツ消費者です。
広告のない世界では、コンテンツ消費者は、無料で受け取れていたコンテンツに、お金を支払う必要があります。
無料で使える広告ありのアプリではなく、広告なしの有料アプリを使うという選択肢を持つわけです。
また、最近は有料の記事やnoteも増えてきました。
まだまだnoteなど素人が書いているようなものばかりですが、有料の記事が増えることで優良な記事が生まれていくと思います。
フォロワーではなくファンとして購入する
広告のない世界(厳密には広告収入以外の選択肢のある世界)は、コンテンツ制作者だけでなく、消費者側の力も必要です。
ただで見られる広告コンテンツ(動画やブログなど)ではなく、お金を払って本やブログなどを見る権利を買うという選択肢を知って欲しいのです。
これまで言ってきたように、広告収入とは無料であたかもコンテンツ消費者にとってありがたいシステムのように見えてきましたが、
長い目で見た時に、コンテンツの質を下げてしまうということが、最近注目されてきています。
コンテンツ制作者は生活のためにはお金を得る必要があります。
そのお金を、スポンサーではなく消費者が払うことで、コンテンツの質を保つ(あるいは上げていく)ことができるのでは、というのがこの記事の主張です。
しかし、私たちのお金も無限にあるではありません。何百という記事にお金を払うことは不可能です。
そこで、私はコンテンツ消費者には「フォロワーではなく、ファンとしてコンテンツを楽しむ」という選択肢を持って欲しいと思っています。
何かこの人に惹かれる、興味がある、この人の考え方をもっと知りたい。
イデオロギーベースでファンとしてコンテンツを楽しむという選択肢を持つ。
広告収入以外の選択肢をコンテンツ制作者にも与えて欲しいのです。
特に、ネット環境の発達により、今は多くの人に情報を届けることができるようになりました。
みんなになんとなく刺さるコンテンツ、ではなく。私にグサッと刺さるコンテンツ。ニッチなコンテンツも比較的見つかるようになりました。
フォロワーとしてではなく、ファンとしてコンテンツを楽しむ。
これが私の、コンテンツの質を保つあるいは上げていくための選択肢です。
世界に、今よりちょっとだけ豊かなコンテンツが生まれていきますように。