分類するな、とにかく並べよ
ひょんなことから1993年の本を購入しました。野口悠紀雄著『「超」整理法』です。
いつもはささっと読んでしまうのですが、今回はゆっくりメモをとりながら時間をかけて読書してみました。途中、読んだ内容はツイートでアウトプットするなど、個人的に新しい読書法を試してみたのもこの本の思い出です。
やや話がそれました。今日は、この本に書かれていた内容をブログでアウトプットしてみようと思います。少々長いので、時間のある時に、あるいは日数をかけてゆっくり読んでもらえると嬉しいです。
ただ、私というフィルターを通しての感想なので、ここに書かれた内容は命名も含めて、この本に書かれたものとは異なります。これを書評ブログと呼んで良いのか疑問です。
筆者の意図した内容とは異なる部分もあると思うので、少しでも興味が出た方は(もしいたとしたら私は涙を流して喜びます)実際に購入し、読んでみることをオススメします。
とにかく分類せずに並べよ
まずはこの本の結論を。
それは、「分類するな。とにかく並べよ。」です
この「超」整理法は、その名の通りアナログやデジタルなどさまざまなものを整理する方法について書かれた本です。
223ページに書かれた内容をたった一言で表すならこうです。分類するな。とにかく並べよ。
一体どういうことでしょうか。次に続きます。
分類だけが整理じゃない
私たちは整理と聞くと、とかく分類をイメージします。例えば学校のロッカー。
この教科書は右、このファイルはこちらの教科書と一緒に左、という具合に物の種類を分類し、まとめ、配置することを整理というように解釈しています。
こういった整理の方法は、本書では「図書館方式」と表現されています。
多くの人が利用する図書館では、この方式での整理が採用されています。読みたい本があれば、内容によって分けられた書籍番号をもとに「あぁ。この辺にありそうだ」と私たちは目星をつけ、そして読みたかった本に辿り着くことができます。
デパートも同じく図書館方式が採用されています。
考えてみれば当然です。服や帽子、子供用の靴下が1階から5階まで雑多に置かれていた場合、私たちは買いたいものに辿り着くことはとても難しくなります。
つまり、分類による整理法=図書館方式とは、多数の人間が利用する場においては非常に有効な整理法なのです。
私たちは、小さな頃から「身の回りを整理しなさい」と耳にタコができるくらい言い聞かされてきました。
この場合の整理とは、分類わけによる図書館方式です。しかし、個人の整理において分類による整理はベストな手法ではありません。
分類による図書館方式は、さまざまな問題を引き起こしてしまうのです。
分類が引き起こす問題
コウモリ問題
分類が引き起こす有名な問題は、コウモリ問題でしょう。
コウモリは、獣と鳥の両方の性質を持っているとして、どちらにも属してしまう(分類不可)な存在です。これに因んで、AにもBにも当てはまるものはどちらにも分類できないといった問題のことをコウモリ問題と称します。
私たちにとって具体的な例を挙げます。例えば、パソコンで今年の運動会に使うファイルを作成したとします。
あなたは、このデータを共有サーバのいずれかのフォルダにしまおうと考えています。しかし、目の前には「令和3年度」「行事」という2つのフォルダがあります。
あなたが作成した今年の運動会ファイルはどちらにも属してしまうため、あなたは目の前のファイルを正しい位置にしまうことができません。これがコウモリ問題です。
誤入問題
分類が引き起こす問題で、私が個人的に一番厄介だと思っているのがこの誤入問題です。
誤入問題とは、ファイルなどが誤って本来あるべき(あった)場所ではない場所に片づけられてしまう問題です。誤入問題が起こると、(ほとんど二度とといって良いくらい)ファイルを見つけることができなくなります。
例えば、先程の「今年の運動会ファイル」を用いて説明しましょう。あなたは「行事」というフォルダを開き、数十もあるフォルダから>生徒活動>令和3年>運動会といった具合にいくつもの階層を経て、作成したファイルを片づけました。
そして、しばらく時間が立ってから同じファイルを開こうと、フォルダをたどっていきます。しかし、「そこにしまったはずのファイル」をあなたは見つけることができません。
なぜなら、別の人が別の階層>令和3年度>2学期>運動会にファイルを移動させてしまったからです。あなたは、あなたが作成したデータを見つけることからまた始めなければなりません。これが誤入問題です。
フォルダ内肥大化問題
あなたは4月に新しい学校に赴任しました。初めて職員室のPCに触れます。共有サーバにどんなファイルがあるのか少し見てみましょう。新しい学校について何かわかるかもしれません。
PCの共有ドライブをクリックします。すると、上から下まで無数とも言えるフォルダが並んでいます。しかも、あなたにはそのフォルダが何を表しているのか、まずはどのフォルダをひらけば良いのか全く検討もつきません。
これがフォルダ内肥大化問題です。
新しい年度が始まると必ず新しいフォルダが生まれます。R2のフォルダからR3のフォルダへの引っ越しから新年度は始まります。また、コウモリ問題を解消すべくより細分化したフォルダが生まれてきます。新たな行事や分掌が生まれると、そこにも新しいフォルダが生まれ、その中にもいくつものフォルダが生まれます。
エントロピー増大化問題という問題があります。どんなに秩序だったものでも、時間がたつにつれて無秩序になっていく、という問題です。これは、元々は熱力学や統計学で使われていた言葉のようですが、この問題はあらゆることに当てはまります。
物事はやがて乱雑に散らかっていくのです。分類による整理は、やがては手がつけられない状態になっていく性質があるのです。あなたのせいではありません。
無数のフォルダができてしまうことにより、先に述べたコウモリ問題や誤入問題がより起こりやすくなります。それぞれの問題は関連しあってより複雑に進んでいってしまうのです。
inbox肥大化問題
最後は個人のファイル管理によくみられる問題です。
分類にはコストがかかります。あなたは今、あるファイルを作成しました。これをどのフォルダに入れようか迷っています。しかし、該当するようなフォルダがいくつかあり(コウモリ問題)、あるいはどのフォルダにも該当しないように思えて、どこにしまおうか迷います。
そんな時、あなたを助けてくれる解決策としてinboxフォルダがあります。あなたは、とりあえずこのinboxにファイルを入れて、後で新しいフォルダを作るかどのフォルダに入れようかルール作りを行うこととしました。
この問題の悪いところは、ファイル制作者はinboxに片づけることで、とりあえず分類したと思ってしまい、後から分類しなおすことを避けてしまう点にあります。そうすると、inboxにはやがて様々なフォルダが「ここにいるべき」という顔をして存在するようになります。
inboxは日本語で「その他」というカテゴリーに置き換えることができるでしょう。ブログを書いたことがある人は、その他カテゴリーを作ると、どんどんとその他に記事を分類し、やがてはほとんどの記事がその他に分類されていることに気がつくはずです。
inboxに無数のファイルがあることで、私たちはそれを目にして疲弊し、いつしか分類する整理を諦めます。これがinbox肥大化問題です。
個人のデータ管理においては分類は非効率
図書館など分類がきちんと固定化されているものは、上で書いたような問題を引き起こす可能性は低いでしょう。
しかし、私たちの仕事はもっと流動的で、分類は常に変化していくものです。
昨日までは「運動会」という場所にあったファイルは、今日は「令和3年」という場所にあった方が便利かもしれません。あるいは、そのように考えて誰かがファイルを移動させてしまうかもしれません。
モノが少ない時代においては、分類はあらゆる課題を解決し、快適な体験を与えてくれました。しかし今はモノが溢れるほど存在する時代です。分類がベストな整理方法ではない場合が増えてきました。
デジタルにおいてはその問題はもっと顕著です。デジタルデータは量が可視化されないため、私たちは無意識に量を増やしてしまいます。紙だと3枚の資料を提出することは躊躇しますが、デジタルデータ(PDFなど)は平気で何十枚も資料として提出します。(そして、これは大抵、読む人の気持ちを考えた資料ではありません)
分類による整理の一番の問題は、メンテナンスコストが高い点にあります。誰かが、上に書いたような問題を避けるよう常時メンテナンスをしてくれれば良いのです。図書館に司書さんがいるのは、上で書いたようなコウモリ問題や誤入問題を解決するためです。
残念ながら、私たちの多くは、私たちの代わりに分類してくれるような秘書を雇うことはできません。職員室のデータを整理することを専門とするような人もいません。まさかこれを読んで、「情報科の先生に、職員共有サーバを管理してもらおう」という人はいませんね。それこそ大問題です。
時間軸による整理
パレートの法則
「必要なものの8割は全体の2割でしかない」というパレートの法則を耳にしたことがありますか。書類で例えれば、あなたが頻繁に使う書類は、全体の2割程度だということを示した法則です。
つまり、残りの8割はほとんど使わない、あるいは二度と使わないと言えるのです。にもかかわらず、私たちはその8割を丁寧に分類わけし、決められた場所に片づけ、結果上記のような問題に頭を抱えるようになります。
では、整理とは分類による整理しか存在しないのでしょうか。その答えこそが本書のテーマであり、1993年としては新しい提案だったのです。
分類するな、並べよ
それは、「時間軸による整理」です。
本書では仕切りに「分類するな、並べよ」と提案されています。これは何の書類か。何に使うデータなのか。そんなことは一切考えずに、ただただ使った順に並べよ、という提案です。
そして、並べて、使ったら最新の場所に移動します。その繰り返しです。紙の書類を片づける場所を内容ごとに分けることもしませんし、データファイルをフォルダで分けるなど一切行いません。ただただ並べよ。
お気づきの通り、今のPCはデータの更新時間をメタ情報として記録してくれるので、私たちはクリック一つで設定し、あとはPCがひたすら時間軸で並び替えてくれます。これで先に書いた分類による諸問題からも解放されます。
そろそろ「そんなことをして必要なファイルがすぐに手に入るのか?」という疑問が出てくる頃でしょう。安心してください。手に入ります。これも、パレートの法則で説明することができます。
必要なものの8割は全体の2割でしかない。ということは、あなたが必要としているのは無数にあるファイルのうち上から2割程度にある確率が80%ということです。時間軸に並べれば、分類フォルダなどをクリックなどせずにお目当てのファイルを見つけ出すことができます。
この方法を行うことで、あなたは新しいファイルを作成した時に発生するコウモリ問題からも、正しい分類がなされずに二度と該当ファイルを見つけ出すことができなくなる誤入問題からも解放されます。
また、上2割を探しても見つからなければ、検索を行えば良いのです。PCでデータ管理する一番のメリットは、人間にはできない量の検索を行える点にあります。共有サーバ全体の検索は時間がかかりますが、個人が使う量のファイル(数百程度)であれば一瞬で探し出すことができます。
メンテナンスコストを下げる
ただ並べるだけ、の最も優れている点は、メンテナンスコストを下げる点にあります。どんなに秩序だったものでも、時間が経過するにつれて無秩序の方向に進んでいくというエントロピー増大の法則というものがあります。
私たちが、一生懸命分類し整理したと感じても、やがては散らかり、煩雑になる未来が待っています。分類には上記のような諸問題を抱えているからです。
ただ並べるだけも同様に、時間が経つにつれて無秩序に進んでいきます。しかし、この場合の無秩序は一見秩序がないように見えて、トップにあるものが最新のもの(よく使うもの)という特性があります。そして、それはあなたが頻繁に使うものでもあります(パレートの法則)
少し話を変えます。長く快適に使っていくためには、メンテナンスコストを下げる取り組みが必要という話です。
Notionというノートアプリが一時期流行りました。私も例にもれなく、Notionに憧れを抱き、いろんなことができる点に魅力を感じ、私の生活をより豊かにするべくNotionをインストールしました。
しばらくは自分のあらゆるデータをそこに書きました。読んだ本リストを作成し、時間割を作成し、アイディアメモを作成しました。調子良く小気味よく様々なデータベースをNotionに構築しました。
でも、それだけです。つまり、データベースを作成した後、徐々にNotionから足が遠のいていき、やがては起動しなくなりました。
ここで一度断っておきますが、Notionが優れていないわけではありません。私が優れていない、というのも少し違います。Notionを扱うには、少々メンテナンスコストが高かったのです。
私たち教師はいつもPCを前に仕事をしているわけではありません。スマホを手にしているわけではありません。また、私の場合は家に帰ってからも長い時間PCを触る時間はありません。そうなると、Notionをメンテナンスする時間はとりづらいのです。
私の代わりにメンテナンスをしてくれる秘書を雇うのであれば話は別です。しかし、個人のデータ管理にそこまでお金を払う人もいないでしょう。やはりメンテナンスは個人でやる必要があり、そしてそのためにはいかにコストを下げるかは重要な課題です。
とにかく分類せずに並べよ
とにかく分類せずに並べよ。ひたすら使った順に並べよ。この本の内容をたった一言で表すのであれば、これに尽きると思います。
分類による諸問題を解決しながら、それでいて長く続けられる方法。昔はアナログでこの方法を行なっていました(例えば押し出しファイル)が、今ではデジタルでこの方法は簡単に仕組みとして取り入れることができます。
注意点としては、これはあくまで個人のデータ管理における方法であり、そこに他者を参加させてはならないという点です。時間軸が意味を成すのは、あくまで私個人による時間軸であり、他人にとってはやはりただの散らかったものでしかありません。
「時間軸にソートをかければ全てうまくいく!」と書かれていない点もこの本の優れた部分だと思います。(逆を言えば、昨今の○○術はこのあたりが盲目的で胡散臭い)
この本が書かれた1993年はまだスマホはおろかPCまでもが市民権を得ていなかった時代。その時代に書かれた本ですが、30年近く経った今でも十分伝わる内容です。
むしろ、30年経ってPCやデジタルが普及して、ようやく私のような一般庶民が理解できる内容になったとも言えるかもしれません。淳先生、良書との出会いをありがとうございました。