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教師であり父でありApple好きな人が書くブログ

読書観。読書についての3つの誤解

最近読書にハマっています。本を読むことにハマっているというよりは、自分の読書との向き合い方を考えたり、読んだ本や読書観について整理することにハマっている、といった感じです。

今日は私の読書についての観を整理し、書いていこうと思います。前置きはほどほどにし、早速本題です。今日もダラダラと書いてしまいましたからね。


読書は自分勝手で良い

自分の解釈から抜け出せない私たち

至極当たり前のことですが、多くの人(かつての自分とこれからの自分)がたびたび忘れてしまうのは、「読書は量に価値があるわけではない」ということです。

「私は本を読むのが好き」という人が目の前にいるとします。まずあなたが気になるのは、この人は普段何冊ほど本を読んでいるのか、ということだと思います。あるいは、この人は一日にどのくらいの時間本を読んでいるのか、かもしれません。実は、これこそ間違ったやりとりなのです。

一日3食ご飯を食べるように、歯を磨くように、睡眠を取るように、読書は生活の中に浸透させることができます。「忙しすぎて最近歯を磨いていない」という人はいないでしょう(中にはいるかもしれませんが、そういった方とはなるべく距離をあけたいものです)。本は、何もまとまった時間がないとできない行為ではありません。


なんとなく、本を読む=インプットというイメージがあります。その感覚があると、本を読んで何かを得なければと思い、そして、まとまった時間を使って学習しなければいけないと感じてしまうでしょう。もちろん、本にはそういった役割があります。何かを体系的に学ぶには、ある程度まとまった時間を使って本を読んだ方が良いかもしれません。

人は、どこまでいっても自分の解釈でしか物事を捉えることができません。本を読んで筆者のメッセージを読み取ろうと努力しますが、結局は自分の解釈という範囲からは抜け出せません。その時の読み手の気分や環境、経験や得た知識によって、本の内容はコロコロと変わるのです。イデア的な正解があるのではなく、読み手の解釈によって本は解読されていきます。

だから、読書は面白いのです。過去に読んでさほど感動しなかった本が、数年経って読んだときに最高の一冊に思えるのはこのためです。


本を使って思考する

読書を、外から何かを与えられる行為として捉えるのではなく、思考するためのトリガーとして利用する。本を使って思考を促すのです。

何かを継続的に発信していると、時々何か発信することがないかな、と探している自分に気がつきます。この場合の発信は、ブログやSNSだけでなく、学級通信や朝の会に話すことでも結構です。皆さんも、「今日は何を話そうか」と考えたことがあるはずです。

先に書いたように、人は、情報を得るとそこに何らかの自分なりの解釈が生まれます。それが思考の第一歩になるのです。そして、その思考のネタ探しとして本を使うことを私は提案しています。


本を読む。何気なく気になった文章に線を引く。今、頭にあるものを余白に書き出す。あるいは読書ノートにつらつらと書き連ねる。しばらく書き出していくと、今頭にあるものがすっかり吐き出されています。

書くことがなくなったら本を読み進めます。焦って読む必要はありません。この場合、あくまで本は考えるためのトリガーとして利用するため、読むという行為には大きな意味はありません。

このようにして本を使う場合、本はメモ帳としての利用となります。これは、独特の体験だと思います。せっかく書いてくれた筆者に申し訳ない気もしてきます。だからと言って、本に書き込まないのは大変勿体無いことです。

綺麗な状態のまま読むなんて勿体無い。現代文テストだって問題や本文に線を引きなさいと教わったはずです。ただ眺めるだけでは、思考はついてきません。早すぎるのです。読み終わった後に某フリマアプリに出品する人にはこの読み方はできないとは思いますが。


全部読まなくても良い

本が先ではなく、調べたい対象が先の読書

私たちが本を読むきっかけはなんでしょうか。おそらく、「この本を読みたい」という欲求が先なのではないでしょうか。売れている本だから、好きな作家さんの本だから、今の自分に必要な気がするから。

そのようにして読書を始めると、大体は本の初めのページから後ろに向かって読み進めていくことになると思います。もちろん、これは読書の手法として立派な方法です。

しかし考えてみてください。例えば同じ本であっても、私たちは辞書は初めから読み進めないはずです。調べたい対象が最初にあり、それを調べるために辞書を読むはずです。辞書を最初から読む人は相当な言語オタクしかいないはずです。私は試したことがあります。


辞書は、それぞれの単語が独立しているため、自然とこういった読み方になります。本は、違います。筆者が考えに考え抜いて、章の順番を作り上げています。しかし、そういった本も辞書と同じように、調べたい対象が先にある読み方をしても良いのではないでしょうか。

つまり、盲目的に最初から読み進めるのではなく、調べたい対象について知ることができそうな部分から読んでみる、ということです。例えば私は、先日、倉下忠憲さん著「すべてはノートからはじまる」を第4章から読みました。(感想はこちら)。ノートを使って考えるためにはどうすれば良いのかが知りたかったからです。

第4章を読んで、私の疑問に対するひとまずの解答を得ました。そして、この本については、倉下さんのノート哲学が知りたかったので最初から最後まで読みました。今回は、該当部分を読んだ後、全体を読みましたが、私の場合、知りたいことに対する内容が得られれば、そのまま一度本を閉じることもあります。こういった読み方です。


資料としての読書

例えば、「遊ぶように学ぶとはどんなことか」ということについて考えたことがあります。(仕事でもなんでもなく、ただ単に考えたい、と思って考え始めました)。その際、まずは遊ぶの定義から調べます。MJハリスの「人間はなぜ遊ぶか」を手に取ります。図書館を使えば、こういった本も買わなくとも読むことができます。

人間はなぜ遊ぶか―遊びの総合理論 (心理学選書)

次に、学ぶという言葉の定義について調べます。同じく図書館で、「学習原論」を手に取りました。(正確には、手に取った、ではなくわざわざ注文して取り寄せてもらったのですが)

学習原論 (1972年) (世界教育学選集〈64〉)

どちらの本も、必要なページを読み、ノートにまとめます。こういった作業は、数ページで終わることもあれば、結局ほぼ全てのページを読んでしまった、ということもあります。いずれにせよ、最初から読むのではなく、目次をみて知りたいことが書かれていそうな部分から読み始めます。資料としての本の活用です。

本は、筆者が意図を持って順序立てて書いています。この意図を無意味だというつもりは毛頭ありません。むしろ、多くの人はやはり最初から最後まで読むべきだと思います。用途によって、読書の方法を使い分ける、ということを私は言いたいのです。


本は買わなくても良い

図書館という庶民の味方

図書館という大変素晴らしく優良な施設を皆さんは利用したことがあるでしょうか。優良な上に、本は無料です。(なんとも低俗なことを書いてしまったと自分で激しく後悔しています)

先の資料のように本を使う場合、どうしても次から次へと本が必要になってきます。先の例のように読みたい本が連鎖的に芋づる式に出てくる場合があれば、同じ疑問について何冊も読む必要が出てくる場合もあります。いずれにせよ、たくさんの本が必要になってきます。

何冊も同じテーマで本を集める資金があれば嬉しいですが、これを生業としている職業ならまだしも、私のような一教員では、残念ながら月に購入することができる本の冊数は限られています。

そこで、図書館という施設を利用するのです。


図書館はラインナップが充実していることはもちろん、図書館同士の連携もできるので、本の取り寄せも可能です。いわば、無尽蔵の書庫を私たちはこの国に生まれたというたった一つの理由で、活用することができるのです。こんなに素晴らしいことはありません。

また、街の図書館は学校と違い、一度に借りることができる冊数が多いのも魅力です。一度に十数冊借りることができる図書館もあります。こうなると、先の資料としての読書が大変捗ります。これを活用しない手はありません。

一冊をじっくり読む読書も大変素晴らしいものです。

「たくさん見る」ではなく「ゆっくりじっくり読む」 - MOLOG

一方で、このように一度にたくさんの本を使って調べる読書(こちらはむしろ学習という意味合いが強い)も素晴らしいものです。図書館ならばこの読書の方法が十分活かされます。上手に使い分けたいところです。