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教師であり父でありApple好きな人が書くブログ

「今までと同じです」で変革のチャンスを失っている学校

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今日はいつものようなApple関連ではなく、たまには真面目に教育について話をしていこうと思います。たまには教育について考えないと、自分が教師であるということを忘れてしまいますからね。

さて、大前提として、私はかなり勉強不足です。教師として働いてから10数年しか経っていません。そしてこれから話す事は、私の解釈であり大きな誤解をしているかもしれません。しかし私なりに調べ考えたことをこれから話そうと思います。

 

未だSociety 3.0から変わらない学校現場

今私達が過ごしている現代社会は、Society 5.0と呼ばれています。教師であれば一度は耳にしたことがあると思います。私なんかよりももっと詳しい人も多いでしょう。文科者のホームページにもこの言葉は載っていますね。

Society 5.0とは「サイバー空間(仮想空間)とフィジカル空間(現実空間)を高度に融合させたシステムにより、経済発展と社会的課題の解決を両立する、人間中心の社会(Society)」

狩猟社会(Society 1.0)、農耕社会(Society 2.0)、工業社会(Society 3.0)、情報社会(Society 4.0)に続く、新たな社会を指すもので、第5期科学技術基本計画において我が国が目指すべき未来社会の姿として初めて提唱されました。

さて、これまた多くの方々が言われているように、私達が働く学校という場所は、残念ながら工業社会(Society 3.0)からほとんど変わっていません。

工業社会では、1つの命令でミスなく同じ行動をとることが良いとされてきました。上司や先輩の言うことをしっかりと聞き、再現性のある人が社会に認められました。また、時間をかければかけるほど生産性も上がったため、長い時間働くことが勤勉であり評価される時代でもありました。(表現がとげとげしかったらすみません。)

 

しかし今はSociety4.0も終わり、Society5.0を迎えた時代です。1から10まで指示を聞いて忠実に再現することよりも、いろんな情報を組み合わせて新たなものや発想を生み出す独自性に価値があります。

そう考えると、これまで何十年も行われてきた授業スタイルやカリキュラムではこれからを生きていく子供たちの教育として充分とは言えません。先生の言うことを黙って聞くだけではいけないわけです。私が働く中学校では、特に意識して変わらなければいけないのでは、と考えています。

教師による黒板を使った一斉授業。グループ活動と言いながら、ただ自分の考えたことを発表するだけのおざなり程度の対話。「みんな同じ」に価値を見いだすような文化。これらは、私は悪いこととは思っていません。これまでの工業社会ではこういった指導がとても重要でした。しかし先ほども述べた通り、時代の変化に伴い、教育も変化していく必要があるのではないでしょうか。私だけでなくいろんな先生がそう思い始めたと思います。

 

「今までと同じです」は逃げの言葉

なぜ何十年も教育現場は変わらなかったのだろうか。私はずっと疑問でした。「おそらく誰も帰るべきだなどと声をあげなかったのだろうな」そんなことをずっと考えていました。

しかし調べてみるとそうではなかったことに気がつき始めました。社会が変化するために「日本の教育はこれまでと同じではだめだ」と声に出す人たちがいました。文科省です。

 

学習指導要領や改定の経緯などを見れば見るほど、何度も学校現場を変えようとしてきたことがわかります。例えば今では失敗と呼ばれているゆとり教育や、総合的な学習等は導入当時は高い志を持っていたことがよくわかります。考えてみれば当たり前で、学校現場に導入するわけですから、いろんな人が考えて意図を思って導入したに決まっていますよね。

 

ではなぜ失敗と呼ばれてしまっているのだろうか。私はその答えの1つが「今までと同じです」と言う言葉だと思います。

文科省や中教審などの組織が変革の必要を持って様々なものを導入しようとする。それを学校現場にまで浸透させるには、多くの人たちがまるで伝言ゲームのように伝えていきます。その途中途中で、もしかしたらこんな言葉が使われたかもしれません。「今までと同じです」「これまでと大きく変化はありません」「今までやってきたここをもう少し丁寧にやっていきましょう」

 

少し話は変わりますが、今回の指導要領改訂時によく使われた「主体的対話的で深い学び」と言う言葉。もともとはアクティブラーニングと言う言葉が使われていました。(こんなふうに書くと少し語弊があるかも知れませんが)

アクティブラーニングと言う言葉が出始めた頃、メディアや教育委員会に幸がこぞって取り上げたのが「アクティブなラーニングスタイル」でした。今日はこれまで行われてきたようなただ単に数人が集まって意見を伝え合うだけの一見アクティブに見える話し合い活動。私を含め多くの人たちが、これはアクティブラーニングじゃないと感じたのではないでしょうか。

アクティブなのはあくまで学習者の頭がアクティブである状態を示します。そこには必ずしも話し合い活動がなくてはならないと言うわけじゃありません。別に静かであっても、学習者の頭はかなりアクティブな状態にすることができます。目で見て、アクティブな状態で安心するのは、大人側の都合なのかもしれません。

 

私も経験年数が増えてきて、周りの人に何かを提案する機会も増えてきました。確かに、「変わること」に対して人はとてもストレスを感じます。何かを提案すると、必ずこれまでと同じにしたがる人たちはいます。私は、そういった人たちが悪いとは思っていません。集団にとっては必要な考え方です。これについては話すとまた長くなってしまうので今はやめておきますね笑。

そういった「変わること」に対してストレスを感じでしたちに説明するとき、「今までやってきた事とさほど変わりません」と言う言葉で説明するのはとても楽なんですよね。聞いてる側にとってそうかあまり大きく変わる必要はないんだと安心感を与える。そうやって提案者が少しずつ言葉を濁していった結果、変えようと思った人たちの思いはどんどん薄れていきます。ここに大きな問題があるんじゃないかなぁと私は思いました。

 

現場が常に変わる姿勢を持たなければ変わらない

私は今回の学習指導要領改訂で、文科省が大学の入試制度を大きく変えようとしたこと。コロナと言う外的要因はありつつも、GIGAスクール構想と謳いICT機器を学校現場に導入しようとしていること。

いろいろなあの手この手を使って学校現場を変えようとしていることがとても伝わってきます。中教審では、教師の業務改善を数年前から視聴しています。教師と言う職業の役割は何なのかと考え、私たちだからできること、私たちがしなければならない事は何かをとてもわかりやすい頭で示してくれています。

それにもかかわらず学校現場では何一つ変わっていない。文科省や中教審でいろいろなことが話し合われても現場まで届かない。私はこれは伝える側だけの問題ではないんじゃないかなと感じてしまいます。

 

私たち現場の教師こそ、もっともっと貪欲に変わり続けていくことを求めて行かないといけません。現場である私たちがもっとアンテナを高くしないと。せっかく業務改善を訴えてくれたのに、いまだに当たり前のように怒られている登下校指導や集金作業を見ているととても悲しくなります。

だから私はできることをできる範囲で少しずつ変えていきたい。無理なく無駄なく変えていきたい。提案するときには「今までと同じです」と言う逃げの言葉ではなく、勇気を持って「変わるべきである」と視聴したい。そんなことを中堅教師として考えました。